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『静岡市史編纂資料 第2巻』は西郡の方について次のように記している。「鵜殿藤助長忠の娘で、初に北条氏直の室となり後に池田輝政の継室となつた督(すけ)姫の母である。慶長十一年五月十四日伏見にて頓死した。」同日、徳川四天王の榊原康政も病死した。彼女は長く家康に仕えた側室の一人である。
【池田重利(1586-1631)】池田家臣。下間頼龍の子。はじめ頼広と名乗って本願寺教如に仕えたが、後に出奔して池田輝政に仕官すると池田利隆の重臣に列して池田重利と名乗った。大坂の陣で尼崎城の守将を務めると功績を評されて大名に列し、主家と共に転封された後に播磨新宮藩の祖となった。
ど康、まだ追いつけてないのだけど。 督姫… 池田輝政継室になった上で次男以降お子様が生まれていて、その為になんやかやあって鳥取藩池田家(督姫の子の忠雄系)になるお方ですね…(伊達忠宗に嫁ぐ振姫の母でもありますね…)